昭和51年08月01日 朝の御理解
御理解 第48節
「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。」
昨日の一時の御祈念の後の御理解もこの48節でしたですね、今日もまた48節続けて頂く訳ですけれども、今はうろたえるといけんというところね。だからうろたえんで済むおかげを頂きたい。まぁそんなところに焦点を置いて聞いてもらいたいと思う。どんな事があってもうろたえんですむ。信心を頂いておるもののいうならば値打ちというものはそこだと思うね。ただ奇跡的なおかげを受けたと。
自分の思いがかのうたと、と言う事もまぁ有り難いでしょうけれども、それはどこまでも信心の入口です。だんだん信心を頂いて、神様をいよいよ信ずる力が出来て、そして神様のおはたらきの中に、それこそ一分一厘も間違いのない、はたらきだと言う事が確信できる時にです、慌てんですむうろたえんで済むのです。だから結局おかげを知るのではなくて、信心を知る事にならなきゃいけない訳であります。
昨日、一昨日から昨日にかけて学生会がもたれました。前の日にしばらくお話しをしてまた昨日もちょうど、七時から八時半まで私の話を聞いて貰った。いわゆるそのうまぁ言うなら大学に行っとる人達ばっかりですし、同時にここから竹内君と伊藤君が、二人参加させてもらった。もう大学を出た人達また大学院までも出とる人達ですから、まぁあのうそれで一生懸命信心を求めておる人達の信心も、また参考になろうというので、一緒に参加させてもらった訳です。
前の日のご理解をテープで頂いて、皆んなそれぞれのまぁ頂いたところ、感じたところを書いておるのを読んでもらったり、聞かせてもらったりした訳です。ところがその何んですかね、私共と全然観点が違うですね、もう見る目が違うんです。ある学生がこんな発表をしてました。合楽の信心合楽のお話を頂いておるとね、もう実にマンガ的だというんです。マンガのようだと言う訳です。
私はだけど何か一本クギを刺されたような気が致しましたですね。どういうところがそんなにそのマンガ的かというと、いわゆる奇跡的なおかげが連続しておると言う事がおかしいというのです。ちょうど前日のお話しの中に、宮崎の網さんの手紙を読ませて頂いたですね、ご理解の中で。もういうならば右も左もどっちも、言うならば借りようのないような中に御神意を頂いて、もう全然関係のない銀行に借りにいった。しかもそのう網さんはそれを御神意書とこう言われる。
いわゆるここから私が、どこどこ銀行に行かれたらいいでしょうと言う事を、末永先生に代筆させて出させて頂いた、その手紙を持って銀行に行かれた。もうだから実は私は何処何処の誰々ですけれども、お金を借りきましたと言う事よりも、その御神意書を先に支店長に見せたというのです。まぁここで御神意書なんていう言葉はないですけれども、網さんはそう言われるです。御神意を頂いてそのお手紙ですから、先生からお手紙を頂いてと言っておられん。
先生から頂いた御神意書を、それこそうやうやしく押し頂いての銀行行きであった。どんなに考えたってんあのう、あんたちった間違うちゃおるめえと、言われたって仕方ない事ですよね相手は銀行ですから。ところが先方のそのおう支店長さんが言われた事は、そのうこれは前の電話での事ととまじえて言いますと、合楽の金光様ちゃあ大変な神様ですねと言われた。その御神意書を見てから。実は網さんあなたがみえるまでは電算機が動かなかったんですよと、ところがあなたがみえたらこの電算機が動き出しました。
銀行と言うところはとにかく金を借りて貰う所ですから、どうぞひとつ借って下さい、貸してあげるのじゃない、お使い頂きたいと思いますと、言う事が手紙に書いてあったんです。金額は四百万円でしたけれども、どうしてもその四百万がなからなければ、もう前にも後ろにも進まれない、ひざる事も出来ないと言う様な金でしたんです。だから普通から言うたら、本当にマンガのような話ですよね。
私いつも思うんですけれども、合楽でおかげを受けたと言う人の話は、まぁ昔なら例えば講談なら講談かなんかで人間が頭で作った話の様なな、あのうふうにあまりにもいうなら素晴らしい話ですから、真実性を欠く話ばっかりなんです。ほんなこつじゃあるじゃろうかと、こうだから証人がここにおって、言うたっちゃあんな証人なありゃサクラじゃろう、という頂き方をするのですよそん人達は。という位なおかげを頂いておる。
その大学の学生の中にもです、そういう風にしか聞こえなかった訳です。例えば昨日は網さん達は今日いつも一日に参ってきます。ゆんべ電話が掛ってから皆んな誘い合わせて五名の者が参拝致しますから、道中無事にというお電話が掛っとった。昨日は夕方からやっぱり連れの方で、宮崎のあのう黒木さん達一行がお参りになって、夕べの御礼信話会に参加して体験発表をなさっておられます。
もう本当に私はそのう黒木さんの昨日体験発表を聞かせて頂き、先生方と顔を見合わせてから、ほんなこて合楽のおかげというのは、マンガのごたるのというてお話し聞き話した事でした。皆さんにも前にも話しましたからね、あの自動車事故にあわれて、そしてそれが交通安全の祈願の御神米をお祀りしてない、会社の車を借りた日に言うなら先日の二十九日です。
明日がいよいよ大祓い式という前日、合楽にお参りをせんならんからそれを、自動車の修繕の方へやられて、そして会社の車を借られてから、間もなくの事故であった。そして思われた事はね、本当に御神米交通安全の祈願のいうならば、お働きというそういう御守護の中にあって、三百六十何日という間無事故であったと言う事を改めて有り難いと思うたと。その日はなんと二十六台という車がもう売れたという話を、皆さんに聞いてもらったでしょう。ところが私はそれは奥さんから電話でそれを聞いとったんです。
実はこんなおかげを頂きましたと言う事を、ところが昨日御本人がお話しになるのはね、二十七台に中古車が五台だから三十二台だったそうです。まる切りマンガのごたるでしょうが。しかもそのおかげが今月まで続いて今月、昨日の言葉ですよ、それからまた三十台販売が出来たと言うておられます。もうどんなに考えたってね、ほんなこっちゃあるのというごたるでしょうが、けど御本人が発表しておる事ですから。もちろん中古車五台合わせて三十二台というおかげを頂いたという話。
まぁ合楽でいうそれはね、おかげの一つの機微というものがあります。こういう心の状態になりゃあ奇跡がおこる。こういう心の状態になればおかげが受けられるという、機微もありますけれども、決して金光様の御信心をさせて頂いておって、さぁまた売れたまた売れたと言った様な事が続く苦もなし、それが続くとするならばです、金光様の信心はちっとそれこそおかしいです。
私その事を学生会の方がある一人がです、合楽のお話しはまるきりマンガのようだと言う事を聞かせてもろうて、その事を神様にお届けさせて頂いたら、やっぱり合楽のあるかぎりはこのマンガ的おかげが頂けれる。ごひれいを受けなければいけないと言う事でした。難しい例えば漢文なら漢文、英語なら英語の本やらを、さぁこれはとても有り難い事、こりゃ素晴らしい事が書いてあるから、読みなさいというても誰ぁれも見向きもしません。読みよっても眠気がすぐきます。
ところがマンガならば面白い、面白いでみんなが読んでしまうようなもんです。子供にあんたマンガばっかり読んでからと言うて怒ったお母さんがね、それを取り上げてから読みよったげなら、しれしれ笑い出したげな、こりゃ面白かと言うてお母さんが読んだように。読むなと言わんでも読むのですマンガなら。だからそういうマンガ的なと思われる位な真実性を欠く程しのです。
やはりおかげを受けて、そしてそれがまぁ奇跡的なただおかげとか、マンガ的なおかげに留まらずに、だんだん信心のいわば有り難いものを分からせてもろうて。例えば今度の合楽だよりという新聞がでます。その奇跡のシリーズの中に、善導寺の原さんの記事がのっております。それこそ昌一郎さんがもうこの世じゃない、もういよいよ明日は葬式だと言う様な状態の中に、おかげを受けらられた話を切っ掛けに、それから三十年間信心が続いて、もうそれこそもう細々ながらではあるけれども。
信心が続いておるというだけではなくて、いうならば合楽の小型のようなおかげを家庭の上に、自分の心の上に現しておられるというお話しが出てます。始めの話はそれこそマンガのような話でしょうけれども、それから三十年間信心がしかも一家を上げて日参が三十年間続いておると言う事。もうそこにはです、いうならば矢でも鉄砲でも持って来い、今日の御理解でいうならば、どんな場合であっても、うろたえんで済むだけの信心が一家を挙げて、出来ておるという事実が。
今度の新聞だけでは足らずに次の新聞にまた続きになって、そのう記事だけはきておるそうですから、出るそうですけれどもその後のものは全部原さんの信心である。通るところを通らせて頂く事がです、私はねうろたえんで済むというおかげになるのではないでしょうか。そりゃあん時は奇跡的なおかげを頂いたがというて、そんなにいつもかつもです、どじょうが柳の下にばかりはいないと言う事なんです。いやむしろ神様が鍛えに鍛えて下さる、働きも起こって来ると言う事です。
鍛えられる時にだからへこたれずに、鍛えられる時にです、それこそ神様なればこそ、親なればこそこの様にして教えて頂く、この様にして鍛えて頂くと言う様な事になるのじゃないでしょうか。昨日信話会の最後に高橋さんが発表されましたが、もう言葉になって出ませんでした。先月は一日から今月はいよいよ太くなる、太くなろうと言う事でした。ところがもう本当に信じ神様に縋り、太くならなければおられない事がずっと続いたんです一と月間。
もうそりゃ私が聞いとっても、もう我慢が出来んのというごたる事が、続いたんです1と月間。それが昨日のここ二、三日それがいうならば、芝居でいうならば、どんでん返しと言うとこでしょうね。どんでん返しになろうとする、雰囲気やら働きが生まれて来て、あれを思いこれを思い1と月間の事を思うたら、皆様ご承知のとおり、高橋さんという人は大変理知的な方ですしね、最高の学問を身につけたお方でもあるし、大体感涙にむせぶなんてような事はない人なんですけれども。
とにかく皆さんがああのうお説教の、ただ細々と黙ってお説教台に立っておられるのを見ただけで、みんなが感動しておかげを頂いたんです。いかに神様が太い大きなおかげを下さろうとしておるかが分かるでしょうが。小さい事に神経イライラすると言う様な事ではなくて、もう辛抱出来んと言った様な事も、神意だ神愛だとして、それを受け抜いて初めて一月間たってみたときにです。
その一つ一つの事をつまびらかに話せば、もっと素晴らしい事でしょうけれども、それが話になって言葉になって出らない程しの感動であった、それはどう言う事かと言うとよくぞ神様が鍛えて下さったと言う事に尽きるのじゃないでしょうか。大きなおかげを頂かなければならん為にはですやはり大きな心。わが子が病気の時に可愛い可愛いと思うてうろたえてはならない。言う事を聞かぬ時にもう構わんぞ知らんぞと言うて、ほっておく様な心持ちになるというなら適切な例をもって。教祖は教えておられる訳です。
もう構わんぞと言うただけではいかん。もうおれは知らんぞと言うただけではいかん。そういう心持ちになって信心してやれとあるのです。昨日の昼の御理解はそこんところを、いよいよ信心を極めていこう追求していけという事でした。ほっておいてほっておくと言う事は自分の我情、いわゆる自分の思いやら欲やらを捨てた姿だから、おかげになるのだという、おかげのいうなら神様のおかげを下さる働きの場が生まれる訳です。不安であり心配でたまらんというのではなくてね、ほっておくような心持ち。
そこにはね我情もなかならければ我欲もない。もう右左は神様にお任せするという、その心の状態が真実のおかげを呼ぶのです。しかもその心の状態になっただけではなくて、それでも尚且つ信心を極め、信心してやれと極めていこうというのです。だから皆さんもやはりマンガ的なおかげも、もうとにかく尊い事ですから頂かなきゃならんですけれども、そういつまでもマンガばかり読んでおると言う様な事では又いけません。いわゆる信心をしてやれと仰る様に、いよいよ真の信心の追求をしていかなければならん。
先日は太くなろうと、もう昨日は一と月間の修行の後にもう様々なお礼のお届けがございました。本当に一と月間修行に懸けるというのですから、素晴らしいですね、そのおかげが生き生きしてくるのが。ならん筈のがなっておる出来ない筈のが出来ておる、と言う様なおかげになって来ておるのですけれども、先月はいよいよ太い受けものを作らせて頂くという事に皆さんが一生懸命なられた。今月はその太いだけではなくて、ひとつ豊かにならせて頂くと言う事を今月の焦点にしたいと思う。
例えば高橋さんが先月、もう太くならなければ立ち行かんと言う程しの、太くなる事に一生懸命努められた。これがまた人間関係なんかの場合なんかは、もうそれこそ相手はそれこそ鬼じゃろうか、蛇じゃろうかというごたる感じの、それこそ敵役を務めた人達に対してでもです、今月は素晴らしい信心の思いを送ってやれれる程しの心を、私は豊かな心だと思うですね。もう先月はあん奴からあえんいじめられたから、今月はいじめ返してやらなんというのじゃないです。
いじめ抜かれたけれどもそれを太い心で受けていた、とても信心がなからなけりゃ受けられる事ではなかった、それを今月はもう一つです、そのいじめられた人達の事までも、それこそキリストじゃないけれども、汝の敵を愛せよである。そういう心が私は信心でいう豊な心だと思う。太くてしかも豊かないうならばね、先月の御理解の中に時々出てまいりましたですね。んなんでしたかねシャープなおかげを頂くと言う事です。
いうならば神様のすさまじいまでの働きを受けるためには、ありゃなん力の事何とかいいましたね、リラツクスね。だからリラックスとシャープと言う事は普通でいうたら、反対なようですけれども、そのリラックスな気持ち楽くぅな気持ち。歯を食いしばらんでもそれを受け抜かれる心の状態、もうリラックスでいけと言う事を先月頂きました。そこにはねそれこそシャープなまでの、いうなら神様の働きを受ける事ができます。シャープと言う事はすさまじいですか、あぁ鋭い、やっぱしすさまじい。
鋭いおかげですね、神様が言うならばもうそれこそ。天と地を引っくり返す様な働きをみせて下さるまでの働きを、それこそ夢にも思わなかったような、おかげと言った様な時に。私はシャープなおかげだとこう思うんですね。そういうおかげを頂くためにも、いよいよ一つ優雅な信心に進ませて頂きたい。太くてしかも豊かな心を目指させて頂いて、今月の信心の焦点にしたい。今日は可愛いと思うてうろたえるといけんぞと。
今日はうろたえんですむ信心を日頃頂いとかなければならん。それにはただまた売れた、また売れたと言った様な中からは生まれてこない。願うても願うても右と願っても左、左と願っても右と言う様な中にあっても、神意を悟らせてもらい、御神愛を分からせてもろうて、有り難い勿体無いと言った様な心の状態が出来て、初めてどんな場合であってもうろたえんですむと言う様なおかげを、受けられると言う事を聞いて頂きましたね。
どうぞ。